カルタゴ

CARTHAGE

チュニス郊外にあるカルタゴ、海沿いには多くの高級住宅街が広がり、内陸側には庶民的な地域が広がる。
多くのカルタゴ・ローマ文明の遺跡が残されており、この遺跡群は世界遺産に登録されている。
この地はその名の通り、ローマ文明を脅かしたカルタゴ文明の栄えた中心地域である。

紀元前814年、フェニキア女王エリッサによりこのカルタゴの町が建設され、地中海交易の寄港地として海上貿易、そして農業を中心に栄えた。そのカルタゴ建設時の有名な逸話が残っている。
当初エリッサがこの地を訪れたとき、彼女は当時この地を収めていた王に土地を少し譲ってもらえるように交渉した。しかし、王は彼女に牛の皮一枚分の土地のみ与えることしか約束しなかった。
そこでエリッサは牛の皮を細く裂き、この皮で誇大な地を囲った。そこで得た地に町を作ったと言われている。

紀元前200年頃、カルタゴ文明は現イタリアに位置したローマ文明とのシチリア利権を争そった第一次ポエニ戦争に参加。しかし実際はカルタゴを滅ぼすためのローマの企みであったため第二次、第三次ポエニ戦争は続けて敗北、カルタゴはローマ帝国に征服され滅んだ。
その後、この地はローマ都市計画に沿って植民地として復興。ローマ帝国第3の都市となる。
しかし7世紀にアラブが侵入し、首都はケロアンに移り更に近郊のチュニスが開発された事によってこの地は衰退していった。

近年は首都チュニスの近郊、海沿いは高級住宅地と栄え、現在に至る

ビュルサの丘

カルタゴ、ビュルサの丘
カルタゴ、ビュルサの丘

カルタゴの中心地、この丘を中心にカルタゴの町は広がっていた。
いまでも丘の斜面には当時の住居跡が残っており、頂上にはアクロポリウムと呼ばれる教会とカルタゴ博物館が健在している。

カルタゴの都市の直径およそ11キロメートル、三面が海に守られていた。
残りの地続きの部分は30キロメートル以上の城壁があった。
都市の中心は広場と碁盤の目状の道路網で港近くに作られ、ビュルサの丘は堅固な砦で覆われていた。
フェニキア人は人目を引く高層の石造りの家に住んでいた。そこには庭や下水、浴槽もあった。
家屋の床は地中海でもっとも早期のモザイク(水玉模様)で飾られていた ビュルサの丘は、カルタゴ最大の神殿エシュムーン神殿があったと言われている。
街は海岸線と平行につくられた塞と塔で守られており、外部からの侵入を防ぐ役目を果たした。
都市構造を持ち、多くの手工業製品が出土していることから、都市国家として建設されており、単なる商業基地ではなかったようだ。

アクロポリウム

アクロポリウムは1840年ルイ9世教会堂建設、1884年再建されたネオ・ビザンチン風の教会堂で、石はマルタ島、装飾はヴェニスから取り入れられた。

白衣宣教会の修道院施設が現在のカルタゴ博物館。
この宣教師達によってまず大々的な発掘調査が行われ保護領下のフランスによって考古学的な調査が始まった。

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カルタゴ博物館

カルタゴ博物館にはこのカルタゴ周辺からの当時の出土品が多く展示されている。
入口の左右にはローマ時代のモザイクが展示されている。
左側の女性4人のモザイクは四季を象徴、右側のモザイクは狩りをしている様子。
茶色のモザイクはテラコッタ(素焼き)、緑色のモザイクはガラスで作られている。

博物館内には当時のカルタゴの町の様子、そして古代カルタゴ港の模型がある。
展示ケース内にあるティーポットのような形のものは当時のランプ。
また、ミニチュアのツボのなど生活用品は死者とともに墓なの中に埋めるものである。

多くの女性の装飾品も出土しているが、男性用のもので現存するものはほぼない。
当時男性は装飾品などをつける習慣がなかったからではないかと考えられている。
2階手前にあるミイラのようなものは、現存するものでこれほど奇麗に残っているものはない。
19歳~24歳くらいの男性であったと考えられている。 ポエニ時代は火葬、土葬の両方の習慣がともにあったと考えられている。

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アントニヌスの共同浴場

世界遺産カルタゴ遺跡のアントニヌス共同浴場
世界遺産カルタゴ遺跡のアントニヌス共同浴場

カルタゴ遺跡で一番注目すべきはこの遺跡である。広大な公園内にはローマ帝国の脅威を連想させる膨大な遺跡が発掘されている。カルタゴの海に面したローマ時代の広大な共同浴場、これらは2世紀頃ローマの五賢帝のひとり、アントニヌス・ピウスにより建設された。

カルタゴには多くの浴場があり、このアントニヌス共同浴場は6万3千平方メートルにも及ぶ。ローマ本家のものを除けばローマ帝国最大規模を誇るほどであった。当時は更衣室、温浴室、冷浴室など100を越える様々な部屋から構成され、2階建ての建物だった。柱や壁には様々な彫刻が施され、床には色鮮やかなモザイクが引き詰められ、当時のローマ人の社交場として使われていたと考えられる。

現在の遺跡は1980年~88年にかけてユネスコの協力を得て、修復、復元されたものである。

ラ・マルガの貯水池

ローマ時代カルタゴには多くの浴場が存在し、大量の水が必要とされた。もちろん同時に一般に使われる生活用水にも多くの水が必要である。そのためカルタゴへの大規模な水道橋が2世紀に皇帝ハドリアヌスによって建てられた。この水道橋はザグアンから続く132kmにも及ぶ、広大なものでその最終到着地点がこのラ・マルガの貯水池である。当時、ザグアンからこのカルタゴへ一秒間に300リットルという水量をこの地に運んだ。

この地には多くの貯水槽が並び町に水を供給し続けた。残念ながら現在はかなり荒れている。

 ローマ人の住居

ヴォリエールの別荘
ヴォリエールの別荘

ローマ時代、皇帝アウグストゥスはビュルサの丘を中心とした長方形の土地を海と平行して碁盤目に区切り、新しい街づくりを進めた。このカルタゴは2世紀頃には30万人の人口を持つ巨大都市となった。
現在にもその当時の住居跡が残されている。

カルタゴのゆるやかな斜面にそれら住居の跡は広がっている。
これは3世紀頃にローマの裕福層が華麗な住居を建てて住んでいた別荘地区で、整備された道と住居跡が残っている。なかでも有名なのがヴァリエールの別荘と呼ばれるもので、大掛かりな修復が施された。
列柱回廊と中庭が美しく、競馬をモチーフにした4世紀初頭の舗装モザイクやいくつかの彫刻が残っている。
ヴァリエール邸はその中でも取り分け豪華で海の眺めがとてもよい。

トフェ

Tophet
フェニキア人の遺跡。
トフェとはカルタゴの神聖な土地だといわれている。この名の由来は乳児を生け贄にしたといわれるエルサレム近郊の谷から。ここから子供の墓が多数発掘されたことでそう呼ばれ、神に土地の有力者の子供を生け贄に捧げたのではないか言われている。しかしこのミステリアスな場所、未だ真相は明らかになっていない。

古代カルタゴの港

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このドーナツ状の池はもともと二つの港で軍港と商業港と別れていた。

カルタージュ・ビュルサ駅下車、そのまま海辺へまっすぐ歩くと5分ほどで見つけることが出来る。

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現在でも小船の船着場となっており、絵葉書のようにかわいらしい風景を目にすることが出来る。

ローマ劇場

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少し海辺からは離れているが、歩いていける距離にある。ここでは毎年夏に開催されるカルタゴ国際フェスティバルの海上でもあり、国際的な大スターがこの舞台を今も尚踏んでいる、現役の劇場である

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あの歌手も立ったであろうこの舞台にあなたも立つことができる。