ベルベル人の祖先、カプサ文化の石器時代、紀元前10000年-紀元前1000年頃
フェニキアの女王ディドーの到来とカルタゴ文明の繁栄、紀元前1000年-紀元前300年頃

ベルベル人の祖先、カプサ文化の石器時代、紀元前10000年-紀元前1000年頃
ベルベル人の祖先、カプサ文化と石器時代
チュニジアの歴史は紀元前10000年までさかのぼる。
当時の北アフリカ、モロッコからエジプトにかけてのマグレブ地域にはベルベル人の祖先であるカプサ文化の人達が住んでいた。
このカプサ文化は石の道具を使用し、石器時代の代表格である。

現アルジェリアのタッシリ・ナジェールの荒野の砂漠の山脈の洞窟には当時の人が残したと思われる壁画が残っており、生活の様子が描かれている。
また、現リビヤの砂漠地帯にある、タドラルト・アカクスにも同様に岩に書かれた絵が残っており、そこには様々な動物に乗った人達の絵や踊りを踊っている人達の絵が描かれている。
このように、北アフリカに広がるサハラ砂漠は当時は砂漠ではなく広大な緑豊かで多くの動物が暮らしていた大地であったことが伺える。

紀元前4000年頃にサハラ砂漠が砂漠化し、当時の人達はサハラ砂漠に分断され、マグレブ地域に住むベルベル人として、歴史に残って行く事となる。

チュニジアも同様に多くのベルベル人が暮らす大地として栄えていた。

 
リビアのタドラス・アカクスの壁画

リビアのタドラス・アカクスの壁画

アルジェリアのタッシリ・ナジェールにある洞窟の壁画

アルジェリアのタッシリ・ナジェールにある洞窟の壁画

フェニキアの到来
紀元前15世紀頃、現在のシリア、レバノン地域に興った文明のフェニキア人が地中海沿岸各地に進出しはじめる。
すぐれた航海技術を持った民族で、地中海地域に特化した海上貿易を中心に様々な地に街を作り、勢力を広げていった。
紀元前11世紀頃、チュニジアにもこのフェニキア人が訪れる。
彼らはウティカに町を作り、この地に根付いていった。
この町が今に残るウティカ遺跡となる。
 
石棺に描かれていた、フェニキア人の船

石棺に描かれていた、フェニキア人の船

フェニキアの女王ディドーの到来とカルタゴ文明の繁栄、紀元前1000年-紀元前300年頃
フェニキアの女王ディドー
紀元前812年頃、チュニジアにフェニキア人の女王ディドーが入り、歴史に名を残すカルタゴ文明の元を作り上げたと言われている。

このフェニキア人の女王ディドーの幼名はエリッサであり、この名前で語り継がれている伝説もある。
このディドーは元々、現レバノンにあるフェニキア人の都市国家テュロスの国王の娘である。
また、そのテュロスの国王の弟である神官、つまり叔父と結婚していた。
しかし、国王の死後、実の兄と後継者争いになり、悲しい事件に巻き込まれていく。
国王の遺言では兄弟仲良くテュロスを治めるように言われていたが、王位と叔父の財産に目が眩んだ実の兄はディドーの夫を暗殺してしまう。
同時にこのディドーも命を狙われたが、彼女はすべてを捨て、少数の家臣と共にテュロスを脱出、船で海へと逃げた。

 
レバノンに残る元テュロスに建てられたローマ遺跡

レバノンに残る元テュロスに建てられたローマ遺跡

ディドーによるカルタゴ建国の伝説と彼女の死
都市国家テュロスを追い出されたティドーは、キプロスの女神に捧げられるはずであった娘達を保護を行いながら、地中海をさまよう事となる。
そして終に今のチュニジア、カルタゴの地に到着した。

ここに滞在する事を決意したディドーは、この地を治めていたベルベルの王に自分達の町を築くために土地を分けてもらえるよう交渉した。
しかし、ベルベルの王は牝牛の皮一枚分だけ覆う土地なら分け与えるとしか答えなかった。
そこで、ディドーはこの牝牛の皮をとても薄く切り裂き、今のヴュルサの丘を囲いこの地を得たと言われている。
この土地に砦を築き、このビュルサの丘を中心にカルタゴはフェニキア人の町として栄えていった。

 
「カルタゴを建設するディドー」ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー画

「カルタゴを建設するディドー」ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー画

この女王ディドーの死は2つの伝説が残っている。
一つは当時のベルベルの王が彼女の才覚と才能に惚れ、多大なる求婚を行った。
しかし、ディドーは暗殺されてしまった夫に愛を誓っており、再婚はしないことを決めていた。
そのため、ベルベル王の幾度となく繰り返される求婚、そしてこの地の危機を感じたディドーは自ら火の中に飛び込み自殺したと言われている。

もう一つの伝説はギリシアにトロイア戦争で滅ぼされたトロイアの英雄アイネイアースが多くの仲間を連れ流浪の末に当時ディドーが治めるカルタゴに到着。
ディドーは彼らを迎え入れ、歓迎した。
アイネイアースとディドーは彼の母の策略もあり、すぐに結びを誓うほどの恋仲に落ちたという。
しかし、アイネイアースにトロイアの再興のための神託が下されてしまう。
彼はイタリア半島へ向かう事を決意、彼女を捨て出航した。
取り残されたディドーは裏切られた絶望の末、火の中に自ら飛び込み自殺したと言われている。

 
「ディドーの死」オーギュスタン・カイヨ作

「ディドーの死」オーギュスタン・カイヨ作

カルタゴの繁栄とギリシアとの戦い

フェニキアの女王ディドーの死後もチュニジアのビュルサの丘を中心としたカルタゴは、豊かな大地と優れた航海技術での貿易により、次々と勢力を伸ばしていった。
当時の北アフリカにあったベルベル人の様々な王国はこのカルタゴに降伏していき、現アルジェリア、モロッコ、スペインのイベリア半島まで手中に収めることとなり、西地中海の覇権はカルタゴの物となっていた。
紀元前5世紀頃には、現リビアにあったフェニキア人の古代都市から諸民族の都市をも征服、エジプト国境
まで勢力を伸ばした。
また、現在のシチリア島、サルデーニャ島、マルタ島にも次々と殖民都市を建設していった。

当時東地中海の覇権を握っていたギリシアは徐々に地中海の覇権を奪っていったこのカルタゴと衝突していった。
このギリシアとの戦いの舞台となったのが、シチリア島であった。
シチリア島の派遣を巡りこのカルタゴはギリシアと3度もの戦いが起こった。

ギリシアとの争い -第一次シケリア戦争-

カルタゴ、ギリシア共に地中海の中央にある大きな島であったシチリア島に多くの貿易拠点と殖民都市をもっていた。
紀元前540年頃になると、このカルタゴとギリシアはシチリア島の西部分の覇権を争い、衝突することとなる。
サルデーニャ島の沖で起こったこの戦いは、大きな海軍を持っていたカルタゴ軍の勝利となったが、これからも幾度となくギリシアと係争が続く事となる。

そして終に紀元前480年、ギリシアとシチリア島の統一を巡り、大きな戦いとなる。
当時のカルタゴは北アフリカから大規模な艦隊を送ったが、途中悪天候に見舞われ多くの船と人員が失われてしまう。
シチリア島に到着し、ギリシアと戦うものの、この戦いでカルタゴは大敗、シチリアの覇権は奪われてしまう。
またこの大敗により、大損害をうけたカルタゴは弱体化、国内では貴族政治が打倒され、共和政治に移行することとなる。

ギリシアとの争い -第二次シケリア戦争-

先の戦いで大きな被害を受けたカルタゴだが、共和制が功を奏し、すぐに回復をしていくこととなる。現在のチュニジア一体を再び支配し、北アフリカの地中海沿岸に多くの植民都市を建設していった。カルタゴの遠征は現在のモロッコやセネガル、大西洋方面まで伸びていたと言われている。
国力を取り戻したカルタゴは再びシチリア島の再領有に向けて準備を進めていく。
紀元前409年、カルタゴはシチリア島への遠征を開始、シチリアのいくつもの都市を占拠に成功していく。
紀元前405年、シチリア島、全域の支配を目指し、2回目の遠征が開始される。激しいギリシア軍との戦いを破りいくつかの都市の占拠に成功するが、カルタゴ軍の中に疫病が蔓延、シチリア全域の支配に至ることはできなかった。
カルタゴは以後60年間以上もこのシチリア島を巡り、ギリシアと小競り合いが続いていく。
しかし、紀元前340年頃にはシチリアのカルタゴ軍は島の南西まで追いやられてしまう。

ギリシアとの争い -第三次シケリア戦争-

南西にまで追いやられたカルタゴ軍は紀元前311年に遂にギリシア軍に最後の砦攻撃し、最後の都市も包囲されてしまう。
しかし、カルタゴ軍は本土からの援軍をもってこの事態を打開、好転させ、次々にシチリアのギリシア軍を破り、シチリア島を占拠していくことに成功する。
紀元前410年頃にはシチリア島をほぼ占領に成功する。ギリシア軍の最後の足掻きで秘密裏にカルタゴ本土に軍を送り強襲に成功するも、シチリアからの追撃部隊に敗北、カルタゴはシチリア島全土を占拠することに成功する。